仕事ができないOLのブログ

ポンコツ会社員にも言いたいことがある

私の3.11の記憶

(東日本大震災についての記事になります。思い出して気持ちが傷ついてしまう方はブラウザバックをお願いします。)

 

あの日から13年が経つらしい。こんなふざけたタイトルのブログにこんな記事を書いていいのか少し悩んだが、テレビの特集をきっかけにあの日の出来事を思い出してみようと思い、書いてみた。

 

あの日のことは今でもよく覚えている。当時、私は中学一年生だった。あの日は偶然、多くのクラスメイトが放課後も教室内にいた。

和やかな談笑を、突然の校内放送と校則違反の携帯電話から発せられるブザー音が遮った。体感では結構すぐに揺れた。長く、大きな揺れだった。あの規模の地震を体験したのは初めてだったので、私は机の下で、「これが地震か。やっぱり地球って動いているんだなあ」などと能天気なことを考えていた。

普段の避難訓練ではクラスごとに整列し、所定の経路を歩いて校庭に避難する。だが実際事が起こってみると、担任の「外に出ろ」の指示で皆走って校庭に出た。私は避難訓練の意味とは何なのだと思いながら、昇降口までの最短経路を走った。外に出ると、校庭が割れて、間から水が湧きだしていた。

全員揃うと、今度は体育館で待機することになった。当時なんとなく、地震で気を付けるべきこととと言えば落下物か火事であった。津波の存在だけは知っていたが、あまり意識していなかった。もし、私の学校が東北の被災地にあったら、海が近い地域にあるにも関わらず校庭や体育館への避難をしていた私たちはきっと死んでいた。

体育館では、泣き出す子、いつもの3倍くらい高いテンションで話す奴、などがいて、皆不安なのだと感じた。私も時折やって来る余震で、体育館のライトが落ちてくるのではないかとひやひやしながら過ごした。当時は少しハイテクな地位を獲得していたワンセグ付きの携帯電話を持っている先生が、画面を見て驚いた顔をしているのが気になったが、先生は生徒にこれ以上の不安を与えまいとしたのだろうか、私たちには何も知らされなかった。私も不安だったのだろうか、気になったにも関わらず何も聞かなかった。

夕方になると、母が学校まで迎えに来てくれて、一緒に帰った。通学路は今では広く知られるようになった液状化の被害を多分に受けていて、いたるところでマンホールが飛び出したり、道路が割れたり、地面が盛り上がってその上の家が傾いたりしていた。のちに経済上、健康上深刻な被害を引き起こす大変なものだということを知るのだが、この時のアホな私は「地震ってすげえ」などとアホな感想を抱いていた。

家に帰ると、テレビが付いていた。その画面には、まだら模様のじゅうたんにこぼれた墨汁の映像が映し出されていた。それが小さな家々を踏みつぶしながら進む巨大な水の塊だと気が付くのに体感で1分ほどかかった。あまりのスケールの大きさに、私のアホな脳みそはついていけなかったのである。

おそらく他の人より大分遅いタイミングで衝撃を受けた私は、混乱のまま眠りについた。

 

その後にも情報の錯綜や断水など地域全体の混乱があったが、以上が私の「あの日」の記憶である。幸いにも私の知り合いは皆関東か関西か九州に住んでいて、家族親戚友達は皆生きている。液状化の被害も私の家にはほとんどなかった。なのに、なぜ毎年こんな胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちになるのだろうか。

 

震災の翌年から、私の通っていた学校では屋上への避難訓練が行われるようになった。あの日の不安を、恐怖を、そして何より被災者の方々の思いを、次にやって来る災害から身を守るための武器にしたい。